
いま、写真家たちから注目を集める女性モデルがいる。「元祖スーパーモデル」の山口小夜子さんを彷彿させる黒髪ロングヘアと鋭い眼差しが印象的な咲月さん(28)だ。彼女は、なぜ写真家たちからひっぱりだこなのか。謎の売れっ子モデルが、自身の壮絶な半生を初めて明かした。
────モデルとしての活動は、いつから始めたのですか?
3年前、25歳の時です。地元は山口の防府市なんですけど、高校を卒業後、しばらくパティシエの仕事をした後、普通に会社員をしていました。建設会社の事務の仕事だったり、義手や義足をオーダーメイドで作る医療系の会社に勤めたり、国立の病院で働いたこともあります。
そうして地元で暮らしていた25歳の時に、摂食障害という病気にかかったんです。ご飯がうまく食べられなくなり、身長158cmで体重が38kgぐらいまで減って。その時に、写真でも絵でもなんでもいいから、ガリガリの姿を何かに残しておきたいなと思ったんです。SNSで探していたら、東京で写真家をしている人がヌードモデルを募集していたんです。ちょっとリスクがあるなと思ったんですけど、その方の作品を見たらすごくかっこいいなと思って、「この人に任せてみよう」と、すぐ飛行機に乗って東京に向かいました。
────すごい行動力ですね。
もともと記念撮影みたいな感覚で行ったので、1回で終わりかなと思って撮ってもらったんですけど、撮れた写真がすごく自分の中で響いて。写真家の方も「また作品撮りしましょう」っておっしゃってくださって、計3回、山口から東京に撮影するためだけに行きました。それまでひとりで飛行機に乗ったこともなかったんですけどね(笑)。すごく勢いがあったなぁと思います。
────その写真は世の中に発表されたんですか?
お互いに趣味の感覚で撮っているので、どこにも発表していません。ヌードが写っていない写真をSNSで少し出したくらいです。
────いきなりヌードの撮影だったわけですけど、気持ち的に大丈夫でしたか?

全然違和感がなかったですね。普通の人はきっと違和感を持つと思うんですけど、私自身はまったくそんなふうに思ったことがなくて。西洋の芸術作品は普通に裸が描かれているし、自分もそういう写真を撮るんだっていう気持ちでいたので、いやらしいという感覚は全くなかったです。
────そこからモデル活動を始めていったんですね。
SNSでヌードではない写真をアップしたりするようになってから、アマチュア写真家の人たちから見てもらえるようになって、それから撮影依頼が来始めたという感じです。最初のほうは写真が素敵だなと思った写真家さんに連絡をとったり、いろんな写真家からリスペクトされている写真家さんをリサーチしてお声がけしたり、自分からガンガンいくこともしていました。そうして私の存在を知ってもらいました。
当時はまだ正社員として働いていたので、土日に副業みたいな感覚でやっていたんですけど、モデル活動が忙しくなりすぎて、10か月くらいでお給料よりモデルの収入が上回るようになって。正社員をやめてアルバイトをしながら、モデルの仕事の時は山口から東京や地方の撮影場所に向かうという生活をつづけていました。モデルの仕事一本に絞って東京に出ることにしたのが、活動開始から1年9か月くらい経った、昨年6月です。
────どういう料金体系で仕事を受けているのでしょうか?
衣装によって1時間の料金が変わります。「私服撮影」が7000円、「川・雨・海などの濡れ撮影」が1万円、「水着・ランジェリー撮影」が1万8000円。「ヌードアート撮影」は3時間プランで5万円です。長時間プランも設けていて、私服撮影は8時間で4万8000円です。交通費は別途いただきます。上京するまでは8~9割がヌード撮影でしたが、今は7割がヌードといったところです。

モデルをやめるか、縁を切るか
────モデルの仕事を、ご家族はどのようにとらえているんですか?
山口では実家の近くで一人暮らしをしていました。2人いる姉とはSNSでつながっているのでモデルのことは知られていたんですけど、両親には言っていなくて、普通に会社員をやっていると思われていました。上京するタイミングで、「実はヌードモデルをやっていて、東京に出て仕事をしていきたい」と打ち明けたんです。すると、「モデルをやめて実家に戻ってくるか、縁を切ってモデルをつづけるか」という選択を迫られることになって……。モデルとして生きていくことを選びました。
────重い決断ですね……。その後、ご両親とは連絡を取っていないんですか?
私が親に、LINEのギフト機能を使って誕生日プレゼントを贈ったら「ありがとう」って返ってくるくらいで、もうしばらく会っていないです。悲しさはあるんですけど、モデルとしての活動を完全になかったことにして実家に戻るってことは、ヌードに助けられたこと全部を否定することになっちゃうんじゃないかなと思っていたところがあります。もう一つは、写真がすでにいっぱいSNSに出回っていて、仕事もたくさん受けてきた今になって辞めても意味ないかと思ったところもあります。両親も頭の片隅に私の活動のことがあると不安だし生活しづらいと言っていたので、親のためにも縁を切ったほうがいいと思っています。
────親子関係の断絶は今後回復する可能性はありそうですか?
この先どうなるか分からないですけど、私がメディアに出たりして、両親が私の活動に納得してくれる状況になれば、いつか納得してもらえるんじゃないかなと思っています。
────摂食障害の症状は、その後改善しましたか?
地元で活動していた時は、将来のこともわからないし、東京に出たい気持ちがあるのに親にも言えていないというストレスで、病気も治すに治せないみたいな状態だったんです。でも親にちゃんと話をして、東京に出てきてモデル一本でやっていける自信がついてきて、今はすごく安定しているという状態です。

“令和感ゼロ”の世界観
────そもそも摂食障害になった原因は何かあるんですか?
学生時代はソフトテニスとかずっとスポーツをやってきたんですけど、社会人になってからバドミントンを始めたんです。山口ってバドミントンがとても盛んで。毎日毎日練習したり、大会に出たりして、全日本社会人バドミントン選手権出場を目指すようになり、中国地方大会の地元代表に選ばれたりするようになったんですけど、とにかく練習しなきゃということで体を追い込んでしまって、試合中に右ひざの前十字じん帯を切ってしまったんです。
手術してリハビリを始めるんですけど、ずっとのめり込んできたものを急に取り上げられた状態で何もできなくなると、ストレスで食べられなくなっちゃったんです。なんとか1年半で競技に復帰はしたんですけど、復帰2戦目ぐらいでこんどは左膝の前十字じん帯を切っちゃって、心がぽきっと折れてしまいました。「もうあのきついリハビリには耐えられない」と思って競技もやめて、そこからどんどん体重が落ちていきました。
────そうしてモデルの世界に出会ったわけですね。モデルとしてのご自身の魅力はどういうところだと思いますか?
胸はKカップあるんですけど、ただ胸が大きいとか、ただお尻が大きいとかではなく、たぶん全体のバランスがいい意味でエロくないんだと思います。たまに「彫刻っぽいね」と言われるのもそういうことかなと。出るところは出ていて、体つきが絵や彫刻などの作品になりやすいというところはセールスポイントだと思っています。
あとは「目つきがいい」とよく言われます。すっぴんの時に目力がすごく出やすいので、「すっぴんで撮影しましょう」と言われることが多いです。
────初めてのデジタル写真集『咲月 そのヌード、煌々と光り輝く』も、ものすごいパワーを感じさせる、強烈な印象を残す作品だと思いました。咲月さんのこれまでの歩みをうかがって、目や表情や体から「生きる力」があふれているのだと理解しました。
この作品は写真家の甲斐公康さんと5日間の撮影で作り上げました。着物も水着も、衣装はすべて甲斐さんが用意してくれたものです。栃木県にある廃墟や、自宅でも撮影しました。昭和の時代にタイムスリップしたような、“令和感ゼロ”の世界を楽しんでもらいたいですね。
【プロフィール】咲月(さつき)/1997年5月19日生まれ、山口県出身。身長158cm。会社員を経て2022年からヌードモデル活動を開始。特技はバドミントン
撮影/甲斐公康


